先週のメッセージからの一言

2017年11月12日

貧しい者が喜ぶ礼拝目指して
コリント人への手紙第一 11章17~22節

集まる目的は共に重荷を負うためです。
教会の集まりを私物化してはいけません。
ある人は集まりで我先にと食事をすませるが、
貧しい人は腹をすかせたままでした。
本物の礼拝は哀れみを水のように惜しみなく与えます。
哀れみが川の水のようにあふれ流れる礼拝であったら素晴らしい。
口先で賛美するのではなく、自分の持っているものを分け合い、
皆が喜ぶ礼拝であれば素晴らしいのに。


2017年11月5日

印のように私の名を刻んでください
一目で分かる聖書ーアモス ピレモン ナホム 雅歌ー

神はできれば、彼らの破滅を撤回したいと思っている。
そのため、神は何度も裁きを思い直された。
しかし、神の民の応答は、神に対する軽視と背信だった。
自分の罪に楽観的で軽薄な人々。神は怒るに遅い方である。
しかし、最後の最終的な破滅は彼らに確かに近づいている。


2017年10月29日

教会の秩序と常識
コリント人への手紙第一 11章1~16節

持っていないものは与えることもできない。
だから、まず自分が先に神の愛を豊かに受け取る必要がある。
そして初めて神の愛の器として、隣人を愛することができる。
受け上手は与え上手である。
礼拝も祈りもまず自分のために必要なのである。
隣人への愛の配慮がもし面倒なら、
自分の器が満たされる必要がある。


2017年10月22日

神の栄光を現す教会
コリント人への手紙第一 10章23~33節

「益」とは「共に担う」という意味である。
すなわち、隣人の益ともならなければ「益」とは呼ばないのである。
だから、自分の自由が何か良いものを建て上げているかどうか
一度考えてみる必要がある。
さらに、自分の自由が何かを破壊しないだろうかと
注意しなければなりません。
愛が口先や言葉だけのものになってはいないか考えてみる必要がある。
なぜなら、みな自分の喜ぶことを先に考えてしまう自己中心な者だからです。


2017年10月15日

試練からの脱出を妨げるもの
コリント人への手紙第一 10章14~22節

「私の愛する子」これは試練の中にいる者が、まず思い出すべき最初の言葉です。
放蕩息子が帰る気になったのは、父の家に溢れている愛の記憶があったからです。
世の偽りの交わりに遥かにまさる神の家族の交わりを思い出したからでした。
「今日み声を聞いたなら、立ち返りなさい」と主は今も呼びかけているのです。
あなたがこの世の霊に捕われる前に。
教会は、あなたにとってこの世にまさる愛の交わりの溢れているところです。


2017年10月8日

恵もうと待っておられる主
一目で分かる聖書「イザヤ書30~39章、詩篇50~60篇」

主は恵もうと待っておられる。
反逆を深める神の民を、大きなあわれみをもって待っておられるのです。
のんきでうぬぼれる町の娘たちが町に満ちている。
彼らにはむしろ「おののけ」と言われる。
世の楽しみと喜びを追いかけている者たちに呼びかけている。
「油断するな。気をつけろ」と。主は、舞いかける鳥のように翼の陰に守るから。
彼らの心は「荒野の中の果樹園」のように麗しい愛の香りで充ちるだろう。


2017年10月1日

神の真実を疑うとき
コリント人への手紙第一 10章1~13節

神を疑う人は神を求めている。
神の真実を荒野の中で探しているのです。
キリストは岩のように隣りにいて、
あなたについて来ていると神の言葉は教えている。
荒野の中でも一人ではないのです。


2017年9月24日

心満たされる教会の建設
ローマ人への手紙 15章24節

パウロの世界宣教も「心満たされる教会」があってこそなのです。
私たちの日常という戦場に向かうのも、そのような教会あってこそなのです。
それは「私の教会は私と共にある」という喜ばしい確信です。
心満たされる礼拝は、弱い者に、目の前の壁を乗り越える信仰と勇敢さを与える。
心満たされる礼拝は本当の出発点なのです。


2017年9月17日

神からの賞を受けるために
コリント人への手紙第一 9章24~27節

ローマの教会を「心満たされる教会」に育て上げようとパウロは手紙を書きました。
それは、均質的な教会ではなく、奴隷も主人も同じテーブルで「おいしいね」と語り合う教会でした。
かつての憎みの相手と共に、キリストにあるビジョンを共有する教会でした。
それは、「仲間同士」の教会ではなく、キリストの十字架なしには、
決して席を同じくして礼拝することなどありえなかった人々の教会でした。
それこそ、神の恵みあふれる奇跡の教会なのです。


2017年9月10日

すべては福音のために
コリント人への手紙第一 9章19~23節

福音にすべてを捧げているのは、一緒に恵みを受け取りたい人がいるからです。
自分一人では喜びはあふれないからです。
自由それ自体は欲しい目的物ではない。自由は道具にすぎない。
一番欲しいものは「心満たされる教会」でした。かつては敵対し憎みあっていたものたちが、
一つの食卓を囲んで食事をする教会でした。
このような恵みを豊かに与えてくださるキリストの福音を宣べ伝えるためだったら
何も惜しいとは思わないのです。


2017年9月3日

罪人に対する神の熱心
一目で分かる聖書「イザヤ11~29章、26章11節」

主の熱心に私たちは支えられている。
それは、正しい人にではなく罪人に対する熱心です。
神がそこまでされるのは、神が私たちを産み出されたからです。
神はご自分の愛の対象として人を造られたのです。
だから、神はいつも呼びかけている。しかし、人はいつも悔い改めなかった。
それでも呼びかけをやめなかったのは、神の方が私たちを求めているからです。
神の熱心は私たちが神に背くときに最大になるのです。


2017年8月27日

福音の妨げにならない
コリント人への手紙第一 9章11~18節

「愛は…せず」と繰り返し言われている。
それは、「何かをする」ことにより、
私たちが愛の流れを妨げていることを良く表している。
つぼが割られた時、その家は香油のかおりでいっぱいになった。
私たちの家はどんな香りだろうか。
あなたのつぼを一つ割りさえすれば良いのである。
キリストの愛と安らぎの香りが、きっとそこに充ちるであろう。


2017年8月20日

自由を愛のために使う人
コリント人への手紙第一 9章1~10節

「あなたは私を嫌っていたはずではありませんか。」
女の言いたかったことを翻訳するとこうなるのです。
嫌われていると思い込んでいた女はぶっきらぼうに、
「なぜ、私に水を求めるのか。」と、素直になれなかった。
しかし、真実にのどが渇いていたのは女の方だった。
もし、女の前に立っている疲れた男がキリストであると分かっていたなら、
女は必ず渇くことのない水をこの男に求めたことだろう。
「神から愛されている確信」は「密かな食物」、疲れた時の「補助ドリンク」のようです。


2017年8月13日

十字架の道-あなたの権利が人を傷つけるなら-
コリント人への手紙第一 8章9~13節

なぜ私たちはオアシスではなく、荒野を歩んでいるのか。
神は十字架の恵みを示しながら、神の愛に私たちを推し進め、追いやり、
神の愛の所に追い詰めようとされている。
そのようにして、どのような者も神の愛に頼り、
神の愛によってのみ生きることができることを知らしめるために、
私たちを追いやっているのです。


2017年8月6日

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た
一目で分かる聖書「詩篇42~49篇、イザヤ1~10章」

たくさんの「なぜ」が私を極限まで苦しめた。
私はうなだれ打ち砕かれてしまった。
しかし、死んだようでも、私の霊が義のゆえに生きていた。
私は思い出した。かつて愛する者たちと一緒に喜びと感謝の声をあげて
神の家にゆっくりと歩いて行ったことを。
神の言は私の心の目を覚ました。
「なおも」神をほめたたえている新しい「私」が生きていた。


2017年7月30日

隠れた場所で、神の恵みに根差して生きる
コリント人への手紙第一 8章7~9節

十字架は神への私の応答でもある。
何をもって神に応答するのか。十字架の上では何もできない。
だから、何かをすることではない。
何もできないが、それは神への全き従順の結果である。
あなたが良い説教を聞いたからといってどうこうなるものではない。
十字架の恵みに信仰と献身をもって答えるまでは神は満足しない。


2017年7月23日

恐れるな。私はあなたの名を呼んだ
イザヤ書42章18節~43章7節

神は何故解放されたばかりの奴隷イスラエルをオアシスではなく、荒野に導いたのか。
それは彼らが神を呼び求めるためでした。
神は荒野に道を造り、川を設けることができるからだ。
神は何故愛する神の民に燃える怒りを注いだのか。
それも彼らが神を呼び求めるためだった。
神はその同じ民に「恐れるな。私はいつでも共にいる」と、水と火の中を共に歩かれた。
神は決して見捨てないのです。


2017年7月16日

唯一の神以外に神はいない
コリント人への手紙第一 8章4~6節、13節

「愛するとはどういうことなのか」。あらゆる問題の解決はこのことに尽きる。
権利や自分の自由を主張する人にはトラブルが絶えない。
御霊の賜物である愛は自制する。
さらに、不当な苦しみを受けながらも耐え忍んでいる。その究極の姿は十字架である。


2017年7月9日

愛がなければ、知識は何の役にも立ちません
コリント人への手紙第一 8章1~3節

知識は神を愛することに奉仕するもの。
神を愛することを学び始めるのが知識の始めであり役に立つ知識である。
そのような人は神の前に覚えられている。
十字架の知識は人をますます謙遜にさせる。
そして、十字架に見る神の愛を知るまでは誰も真の愛を知らない。


2017年7月2日

一目で分かる聖書「武装しなさい。~人生は戦いに満ちているから~」
民数記22~36章

あなたの隣りにいる「いつも逆らう人」に感謝しなければならない。
その人のおかげで思慮深くなれるから。
もしあなたが謙遜な人であるなら「自分の道の方が間違ってはいないだろうか」
と吟味する機会を持つことができるから。この世はいつも甘い提案をあなたに持ち掛けるから。
二心は妥協の産物。二心の人は何も成し遂げることはできないと神の言葉は言っている。
甘い道から引き返すチャンスは何度かあったはず。
今日もあなたの心はイエスの方に向いていますか。


2017年6月25日

もっと幸福な生き方
コリント人への手紙第一 7章39~40節

結婚願望の強い人は大切なことを忘れている。
それは結婚を支えるものの方が、結婚そのものよりも大切だということだ。
それは神から来る愛である。そのことを忘れているためにたくさんの結婚が破綻している。
それは神の愛に留まり「そのまま」でいることから多くを学ぶ訓練である。
外形を変えることではない。
さらに優れた道は、しばしば人間のやり方や知恵の反対側にある。


2017年6月18日

心のままにしなさい
コリント人への手紙第一 7章36~38節

神がキリスト者に与えられた自由は想像以上に広い。
「思いのまま食べてよい」と神は言われたのである。
食べてはいけないのは二本の木の実だけであり、
他の無数の美しい果実は思いのまま食べてよいのである。
神の喜ばれる道は狭くはない。一方、心の痛みはキリスト者に警告する。
アダムはエバのかしらでありながら、自分の結婚問題の中で神の言葉を無視し、
また心の痛みを無視したため罪を犯してしまった。
もし、心の痛みに耳を傾けてさえいたなら。
心の痛みもあなたを正しい道へ導くことが出来るのです


2017年6月11日

一目で分かる聖書「人生という荒野を生きる」
民数記10~21章、21章4~9節

神の備えと助けは「すぐそこ」にあった。
つぶやきが彼らの心を曇らせていたので、それが分からなかった。
キリストはいつも共にいたのである。
つぶやきは神の民を38年も同じ場所を周回させていて、少しも前進しなかった。
イエスはベテスダの池の淵に38年も横たわっていた男を癒して歩かせた。
「助けてくれる人がいません」と言ったその人のすぐ隣りにキリストは立っていたのです。


2017年6月4日

死ぬべきからだで生きる喜び
ローマ人への手紙第一 8章7~14節

神のこどもとはどんな信仰の持ち主か。
全く肉の思いを持たない清い人か。否。
単に御霊にリーダーシップを与えている人のことです。
神のこどもは自分の肉の思いを相手にしない。教育しない。
さらに、肉に対して全く無責任でさえある。
獄中の囚人に挑戦されても相手にしない。
すれば、すぐにトラブルになる。
自分の正義感と自分の清さはしばしば悪魔の「わな」になる。


2017年5月28日

実を結ぶ結婚生活
コリント人への手紙第一 7章29~35節

あなたはどこから生きる力を得ていますか。
誰を喜ばせようとして生きてますか。
もしそれが人間ならば人間の奴隷になります。
キリストに結びついていた人が、もし人間にも結び付くならば、
その人の心は分かれるのです。それがひどい思い煩いを引き起こします。
愛は神から来るのですから、神に結びついてこそ、幸せな結婚生活があります。
心が根差す場所を間違えると何の収穫も期待できません。


2017年5月21日

苦難は祝福に変わる
コリント人への手紙第一 7章25~28節

危機の時には、クリスチャンには使命があります。
人生の最終的な解決を得ている者は、そうでない人々のためにその時間を使うべきです。
嵐の中を歩む人々がみな聞きたいと思っている言葉をあなたは持っているのですから。
パウロは自分自身が囚人であるにも関わらず、
死の恐れに直面して脅えている人々にこう言いました。
「恐れてはいけません。元気をだしなさい」と。
イエスの復活を知っている人だけが言うことができる言葉なのです。
あなたしかその人に語れない言葉をあなたは持っているのです。


2017年5月14日

いつもキリストの喜びの中にいる
コリント人への手紙第一 7章23~24節

自分の正義感は悪魔の好物で「えさ」です。
それはいつも、自分が変わるのではなく、相手が変わることをいつも要求する。
摩擦は絶えない。愛されることよりも、いつも愛することを学びなさい。
「キリストの奴隷」とは、キリストに愛によって堅く結び付けられた者のことです。
心が一体なので、どちらが主人でどちらがしもべだか分からなくなります。
イエスは師であり友でもあり、またしもべともなったのです。
だから、キリストに結び付けられた者は世において一人であることを恐れないのです。


2017年5月7日

一目で分かる聖書「主は道を造られる」
ルツ記

系図は、様々な状況を貫き通して神は人を導かれ、
愛によって支えられた神の証しです。
神が苦難の中にある人を支えられた信仰の道筋です。
全てを失ったように見える時、一人残されたように見える時にも、
神はまだ道を残されています。
全ての恵みの源泉である神に立ち返る時、
あなたは一人ではないと気付くでしょう。
神は決して見捨てないのです。


2017年4月30日

それを気にしてはなりません
コリント人への手紙第一 7章20~22節

「気にする」とは、「差し押さえられる」という意味がある。
神があなたに与えた良いものをサタンは差し押さえて使えないようにするのです。
失うわけではないが、凍結させられて役に立たない状態である。
神の御霊は生かす霊であり、神の愛によってそのように縛られている人を開放する。
あなたに与えられている自由は周囲の人を
このような自由の中に導き入れるために与えられたのです。
あなたは神の愛の器として遣わされているのです。


2017年4月23日

初めの愛に立ち返る
コリント人への手紙第一 7章18~19節

割礼という外形は神の目から見て全く問題にはなりませんでした。
しかし、神から目を離した者の目には何を見ても問題に見えました。
誰と結婚し誰と別れるかなどということがこの街では問題になっている。
ですが、大切なことは外形を変えることではなく、
「愛することをその中で学ぶこと」なのです。
すべてはこのことにかかっているのです。


2017年4月16日

神から頂いた分を感謝する
コリント人への手紙第一 7章15~17節

野の花も空の鳥も、それは神が与えた所で、その制約の中で精一杯生きている姿です。
銀座では宝石と高価な衣服を身に着けている。しかし、それで人生が変わることはない。
金を被せても虫歯は直ったわけではない。その人の本質が変わらなければ何も変わらない。
イエスを信じた人は、心に主の復活のいのちをもっている。
その人はパウロとシラスのように、自分の獄中で賛美できる。
あなたは様々な制約という獄中にいるかもしれないが、
そこは主が、あなたを召した場所なのです。
そこでこそ、あなたの内に復活のいのちが与えられていることが、
誰の目にも明らかに証しされるのです。


2017年4月9日

互いに祝福を与える存在
コリント人への手紙第一 7章10~14節

純真という清さの方が闇の力よりも強い。
闇は光に打ち勝たなかった。イエスはらい病人に手を置いて触っていやした。
らい病はイエスを汚さず、かえってらい病人の方が清められた。
イエスを信じる者の心には、このいのちの水の泉がある。
神の民は、いつも「祝福を注ぎ出す側」として存在しているのです。


2017年4月2日

一目で分かるミカ書「丘々にあなたの声を聞かせよ」
ミカ書4章

神の恵みは罪人を光の中に連れ出される。
罪の告発によって、ご自身が苦しめた者をご自身のところへ寄せ集める。
裁かれたシオンの娘も、敵を蹴散らし、どんな敵をも打ち破る青銅の足をいただく。
このように、最も小さい者にも足りないものはない。
悪のたくらみも神の祝福に変えてしまう。
苦い失敗の経験も勝利への入口にしてしまう。
神の恵みはすべてを新しくする。
このようにして、あなたは起き上がる。あなたの内に光があるからだ。


2017年3月26日

主の霊に燃やされて生きる
コリント人への手紙第一 7章8~9節

性的な誘惑に全く無力であった者も、いのちの御霊によって満足して解放される。
神との交わりが聖霊によって激しく強くなるからです。
神の霊に燃やされる激しい交わりは、他者からの誘惑から遠ざける。
私たちが主に燃やされて生きることができるのは、
主がまず、熱い思いで、燃えるような愛で私たちを愛して下さったからです。
結局、私たちのすべての熱心の源は、主がまず愛して下さったからです。


2017年3月19日

キリスト目指して一心に
コリント人への手紙第一 7章6~7節

「キリストに一心に集中して走る」ことが神の私たちに対する熱い願いです。
サタンはそれを妨害しようと魅力的な障害物を私たちの目の前に置こうとしている。
情が燃えると心が分かれるのです。サムソンはそのために死ぬほどの苦しみにあった。
サムソンは自分の国の人々を解放するという偉大な使命を神から与えられていたにもかかわらず、
異性に心奪われて心が分かれてしまったのである。
一心にキリスト目指して歩むことは愚か者には損に思えるのです。


2017年3月12日

互いを祝福する結婚
コリント人への手紙第一 7章2~5節

「多くの人の愛は冷える」とイエスは預言したが、
今日、そのサタンの攻撃は「結婚関係」に集中している。
結婚という約束が軽んじられている。「愛された花嫁の喜び」が消えてしまった時代。
不品行の罪を避ける最も素晴らしい方法は「真実で愛のあふれる礼拝」を捧げること。
そこには「愛された花嫁の喜び」があふれている。
「互いに祝福を与える結婚」は「愛された花嫁の喜び」を分け合う聖霊による礼拝の中にある。
あなたは愛された花嫁であることに気づいていますか。


2017年3月5日

エルサレムのためにイエスは涙を流された
一目で分かるルカの福音書 12~20章

熱い感情の伴わない愛は、冷めたスープのようにうれしくない。
「もし、おまえが今日このことを知って立ち返ってさえいれば」と、
のちの彼らの悲惨な最後を知って、イエスは涙を流して言葉を詰まらせた。
イエスの彼らを愛するゆえのくやし涙です。このキリストの心は宣教の熱意に変わります。
私たちには、もう少しイエスの悔し涙の気持ちが必要な気がする。
冷静なこととただ冷えていることは似ているが、全く違うもの。
あなたの心が愛によって燃え立たせられるように。
そうなればキリストの愛の炎は必ず燃え広がる。東京全体に。


2017年2月26日

御霊の実は愛であり自制です
コリント人への手紙第一 7章1節

「男が女に触れない」ことは独身時代にマスターしておくべき作法です。
この訓練をマスターできないと、
結婚してから深刻で悲劇的な問題を引き起こすことは明らかです。
これは愛からくる作法です。また、自制は美しい御霊の果実です。
「思いやり」そのものです。このように独身時代に美しい果実を実らせる人は結婚してから、
豊かな果実を喜びと共に収穫する人になります。


2017年2月19日

神の栄光を現わす生き方
コリント人への手紙第一 6章19~20節

「知らないのですか」と使徒パウロは何度も私たちに問いかけている。
なんと私たちは自分が尊い存在であることを忘れやすい者だろうか。
私たちを愛してくださる神を忘れる時、人間はつまらない者に見えるのです。
しかし、自分が神の愛の大切な対象であると知るなら、
愛されているゆえに自分は尊い存在であることに気付くのです。
忘れやすい者でも思い出すことはできます。
心の目を主の愛に向けましょう。呼びかけられた時にはすぐに。


2017年2月12日

からだは礼拝を捧げるために
コリント人への手紙第一 6章13~18節

栄光から栄光へと私たちは主と同じ品性に毎日変えられていきます。
「ダメな私」からのスタートではなく、栄光からのスタートです。
十字架からスタートするのです。赦された者、愛された者からのスタートです。
あなたは正しいスタートラインから歩んでいますか。


2017年2月5日

一目で分かるルカの福音書「来たるべきお方は誰か」
ルカの福音書7章19節

イエスは弟子たちに「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」を与えた。
敵の攻撃の一つは訴えることでその人の劣等感などを的にする。
もう一つはその逆。「私はそれで良い」と思わせる「惑わし」という手法である。
サタンはクリスチャンがより献身的になることから遠ざけている。
イエスの名の権威はそのような人の目を覚ます。
権威は法的権威で感覚はないので「おまえには力はない」と簡単にクリスチャンを騙せる。
権威はイエスの権威だからあなたの力には関係ない。
イエスの権威によってまず自分自身を自由にする必要がある。
そのようにしてあなたの杯はあふれるのです。


2017年1月29日

どんなことにも支配されない
コリント人への手紙第一 6章12節

「どんなことにも支配されない」という人間の自由と尊厳は、偶然には与えられない。
キリストから目を離さない時にのみ与えられる神の恵みである。
世の人々は「すべてのことは私には許されている」と言いながら、
現実はその事の奴隷となっている。愛が自由に目的と価値を与える。
愛は生活に正しい優先順位を与える。自由は愛のために使うために与えられた。
その価値と使い方の究極は十字架と献身である。


2017年1月22日

力ある教会目指して
コリント人への手紙第一 6章9~11節

神の国の力の現れのないクリスチャンは、光を放たない灯台のようです。
神の国と世とは衝突している。しかし、イエスの十字架によりサタンは敗北しているので、
神の国はクリスチャンの祈りによって、サタンの国、すなわち、この世に侵入し奪い取っている。
そして今、多くの者が喜びながら帰ってきている。やみは光に打ち勝たなかった。
私たちこそその光を放つ神の国であり、勝利です。
私たちこそ、やみの世界に生きる希望をもたらす神の国の現れなのです。


2017年1月15日

不当な苦しみの中で悲しみに耐えたキリスト
コリント人への手紙第一 6章1~8節

兄弟間の争いの中で、不正や欺きを甘んじて受け取ることは、
キリストの愛に満ち足りている人にだけできる。
自分の正しさの中ではなく、神の義の中に自分を見出だす喜びを知っている人です。
自分の罪をよく知っているからです。
不正を甘んじて受け取ることの究極は、「十字架」であり『殉教』です。
私たち罪人の不正を甘んじて受け取り、
主を賛美した殉教者の心は真にキリストの心なのです。


2017年1月8日

キリストの聖さに預かる教会
コリント人への手紙第一 5章9~13節

私達はおびただしいばい菌の中に生活している。
しかし、すぐに病気にならないのは、皮膚によって守られているからである。
もし、皮膚に傷口があるなら、そこから菌が侵入して体は力を失う。
だから、みことばは厳しく戒めている。世に心を開いてはいけないと。
間違った哀れみと寛容も教会から力を失わせる。
偽りの平和を求めて罪に甘い対応は教会から塩味を失わせる。
注意しなければならない。「裁きは神の家から始まる」から。


2017年1月1日

勇敢に戦う教会
テモテへの手紙第一1章18節、テモテへの手紙第二2章3~6節

神の愛だけで満ち足りる心を持つことを学んだ人は、
真にすべてのものを所有している人です。
それは戦いの多い信仰生活の獲物である。
健康な体は厳しい訓練の中で獲得されるように、
健康な教会は戦いの中で成長する。
単なる誠実さや純粋さは人生を導かない。
持っているコンパスが正確でなければいつまでたっても港に着かない船のようです。
目標から目を離さないで脇見をしないことは信仰の戦いである。
その人は目標の素晴らしさに心を奪われ、その目標に真に満足しているのです。


2015年分