先週のメッセージからの一言

2016年12月25日

放浪するイエスの家族
マタイの福音書2章13~15節、19~23節

離れてはいけない方と離れないとき、
この世においては放浪者のように立ち去らなければならない所がある。
マリヤとヨセフはキリストの安全を第一に考えたので、
キリストが危険にさらされる所からはすぐに立ち去った。
他国人のように生活したが、キリストがいつも一緒だった。
ある人はあまりにもそこに執着しているのでキリストを隠さなければならない。
その結果、とても大切な、無くては生きていけない「愛されている確信」を見失ってしまうのです。


2016年12月18日

良い知らせを歓迎した人、拒んだ人
ルカの福音書2章8~16節

いつも明るく大胆な人は神の恵みに信頼する人です。
マリヤは神の恵みに信頼して身重にも関わらずベツレヘムに旅立った。
博士は神の恵みに信頼してヘロデの所に帰らず別の道から帰った。
羊飼いも神の恵みに信頼して羊たちをおいて出かけた。
多くの人は良く考えて、そして止めてしまう。
少し思慮深く考えるなら神の恵みを計算にいれたであろう。
イエスは、誰でも捜す人には見つけることができる所にいつもいるのです。


2016年12月11日

別の道から帰る
マタイの福音書2章1~12節

「はい。私はここにいます。」と言える人になりたい。
キリストの前に来ても、こっそり帰る人にではなく。
あの病の女はキリストと群集の前に始めはこっそり来たが、
キリストの呼びかけに応えてみ前に正直に姿を現した。
キリストのみ前に来て、そのまま来た道を戻ってはいけない。
キリストに出会った人は新しい生き方を始めたのです。
キリストの言葉が女の心にこだまする。「娘よ。あなたを責める者は誰もいない」と。


2016年12月4日

一目でわかる詩篇とクリスマスQT「やみの中に光が輝いた日」
イザヤ書9章1~7節

マリヤは正しい相談相手を選んだ。エリサベツは神が推薦した信仰の友だった。
誰でも自分の期待する答を与えてくれる世の友を何人も見つけことができる。
しかし、神の与えた友は、神が与えると約束した祝福を確かに手に入れる助けをしてくれる。
間違えてはいけない。マリヤが急いで向かったのは、
ヨセフでもなければ親のところでもありませんでした。
神の与えた友はしばしば見えません。賢い者にしか見出だせない狭い門なのです。


2016年11月27日

「純粋で真実なことを求めよう」
コリント人への手紙第一 5章6~8節

純粋であることは孤独なのです。
「一人である」ことに誇りと満足を持つことができない人は「わな」にかかりやすい。
愛されていることを確信している人は一人でいることを恐れない。
愛されている確信のない人は、誰が一緒にいても何人も一緒にいてもいつも不安なのです。
また、いつか一人になってしまうという恐れをもっています。
そのように誰もが心の中に孤独を隠しもっています。純粋であることの価値を知っていますか。
預言者エレミヤはむしろ一人であることを選びました。
そして、涙とともに失われつつある人々のために泣きました。
もし、あなたも一人であったなら、あなたも失われつつある自分の愛する者のために、
きっと涙とともに泣いたことでしょう。


2016年11月20日

「あなたの心はどこにいますか」
コリント人への手紙第一 5章3~5節

誰もが招待状を待っているシーズン。心惹かれることには注意してかかる必要がある。
「わな」には必ずおいしいえさがあるから。
私たちの自由は真実な愛をもって愛するための最もよい環境である。
愛は「ノー」と言うべき時にノーと言う。世の誘いに「ノー」と言う時、私たちは輝く。
世の与えることの決してできないものをその人はもっていることが明らかになる瞬間。
主イエスの求めに「イエス」と言うとき天に喜びが響きわたる。
そして、あなたの輝きが地上の闇を歩んでいる人々を照らすのです。


2016年11月13日

「キリストのすばらしさの故に」
コリント人への手紙第一 5章1~2節

「この井戸の水を飲む者はまた渇く」の「井戸」とは、この女性にとっては「異性の愛」だった。
異性の愛を追い求める人は、異性の愛に満足しない。
そればかりか、もっと悪いことは恋い慕う相手に支配されてイエスを忘れてしまうことである。
その時から放浪の旅が始まるが終着駅に着くことはない。
イエスの与える水は「神の愛」である。
これこそ今まで放浪して求めてきたものだとあの女性は六人の男性を放浪した後、やっと気づいたのである。
そこまで傷つく必要はない。イエスは女性に言った。「私の与える水を飲む者は二度と渇くことはない」と。
彼女はやっと終着駅に着いた。その時、彼女の輝きは町中の人を照らしたのである。
あなたもこのように輝くことが出来るのです。神の愛に満たされることによって。


2016年11月6日

「青白い顔」から「輝く目」を持つまで
ヨエル書 2章6節 詩篇 13篇3節

ダイヤモンドもどんな宝石も光がなければ輝けません。
もし光を知らないなら、自分が道端の石ころ同然に見えることでしょう。
そのように光を知らない人は自分をつまらないものと思っている。
誰も神の愛の光を知らないなら輝けないのです。
あなたはどんな光の中を歩んでいますか。
あなたは神の目には高価で尊い存在なのです。


2016年10月30日

「神が待つという愛の優しさと厳しさ」
コリント人への手紙第一 4章18~21節

神の力が現されるポイントは、自分の弱さです。
そこは神の復活のいのちの力の現れるポイントでもあります。
そのポイントではその人は自分の力に頼ることはできません。
キリストの栄光はどこに現されたか。それは、十字架に架けられたキリストの御顔です。
キリストは自分の苦しみの目的を良く知っていた。
そのため、キリストは御自身の激しい苦しみを見て満足したのです。
あなたは自分の苦しみの意味と目的を知っていますか。
しかし、その知識はキリストを知る神の栄光の知識から来るのです。
そして、そこがキリストの復活へのポイントであり、
キリストを信じる者の日々の復活のポイントなのです。
今日あなたは自分の失望落胆から復活するのです。


2016年10月23日

「心を燃え立たせる記憶」
コリント人への手紙第一 4章17節

神の方法は、命令を実現させる人間の情熱に向けられる。
その人の心を燃え立たせる方法である。
それは、単なる教えではなく、教えが人生において現実化された聖徒の
「生き様」の記憶を思い出し感動させられ、私たちの心が燃え立たせられることによってである。
パウロは『私の生き方』が教会を変える、クリスチャンを変える。と言っています。
私たちの生き方は人の心を燃え立たせるものとなっているでしょうか。輝いているでしょうか。


2016年10月16日

「父の教育」
コリント人への手紙第一 4章14~16節

「愛されている確信」を失わない訓練がある。
イエスは荒野での孤独と飢えの中で、彼のミニストリーの初期にその訓練を受ける必要があった。
父の愛に留まる訓練。「決して揺るがない関係」を誰かと持っているかどうかが、
試練の中にある人の最後のとりでです。それは、不完全な者の底知れない平安です。
「愛されている確信と揺るがない関係」は
私たちに次のステップへ冒険する勇気と今日の日に直面する勇気を与えるのです。


2016年10月9日

「この世のちりとかす」
コリント人への手紙第一 4章9~13節

キリストによって自分の問題が解決されている人は、ののしられてもその相手を慰めることができます。
神の前での尊い自分の価値を知っている人は、小さなことにこだわらなくなります。
そして、真に相手の立場に立って理解することができるようになります。
相手をののしったり見下す人はまだ自分の尊い価値を知らないのです。
バウロが「私はこの世のちり、かすです」と言うことが出来たのは、
この世の力関係から全く解放された「王」の言葉なのです。


2016年10月2日

「主に喜ばれる生活という礼拝」
ホセア書1章2節、ローマ書12章1~2節

「もし私がそこにいなかったならば、十字架を背負うことなどなかっただろうに」
とシモンは思っただろうか。そうかもしれない。「私はなんと不運な男だろう」と。
私の人生はいつもそうだと。しかし、イエスを知った今はもうそう思わない。
神に選ばれてそこにいたのだと感じる。
だからシモンは自分の息子ルポスが自分の不運を嘆く時はいつもこう言って慰めたものだ。
「おまえは選ばれてそこにいるのだ」と。聖書は彼を「選ばれた人」と記録している。
彼は出稼ぎ労働者のクレネ人だった。


2016年9月25日

「キリストの平和を実現する」
コリント人への手紙第一 4章6~8節

礼拝を喜びと共に捧げられない人は、喜びを盗み取られているのです。
神との和解は十字架によりすべて完了しています。
ですが、隣人との争いの負い目が、神との和解の喜びを味気ないものに落としめているのです。
隣人との和解への愛と勇気は神から来るのです。
神との和解の喜びがあふれて、隣人との和解に流れていくのです。
神との関係は十字架により完成しているのですから、そこに人間関係のトラブルを持ち込まず、
ただ神の愛にあふれることを求めましょう。
そこからあらゆる方面に勇気と愛があふれ流れて来るのです。


2016年9月18日

「神からの称賛を信じて生きる」
コリント人への手紙第一 4章5節

何の良いことも見えない中途半端なシーズンというものがある。
地球も始めは泥の固まりで何の良いことも見えないカオスの状態だった。
しかし、その上には神の霊がおおっていた。その泥の固まりの中に、実はあの美しい地球のすべてがあったのです。
「愛はすべてをがまんする」とは、神の霊が何か良いものを産みだす「すべてを期待する」時でもある。
先走った短気を起こさずに神との交わりの中に時を過ごすならば、
あなたは必ずや神の美しいみわざをその目で見るであろう


2016年9月11日

「人の判定を恐れない」
コリント人への手紙第一 4章3~4節

人を恐れると罠にかかります。
使徒たちは人の判定を恐れずに、人の判定に従わず、神に従いました。
しかし、もう一つの態度があります。人の判定を恐れずに、人の判定に従うことです。
人を恐れずに、人の間違った判定に従うのです。罪でないかぎり。
イエスを信じている人は普通正しい行動をしようとしています。
ですので、普通あなたの判定のほうが世の人の判定よりも正しいことが多いと思います。
しかし、人を恐れずに、人の間違った判定に従うことによって神に従うこともあるのです。
イエスは人を恐れず、人の間違った判定にも従い、十字架にまでも従われたのです。
天の父はそれゆえにイエスに栄光を与えたのです。


2016年9月4日

「義の光を隠さない」
ローマ人への手紙1章17節

信仰者の憂鬱は「神は役に立たない」という世の侮りを周囲に引き起こす。
憂鬱という「おおい」を取り除くのはキリストである。あなたはキリストによらなければ輝けない。
自分の光を隠して悪魔を喜ばせてはいけない。光を隠して世の人々に神を侮らせてはいけない。
あなたの光は自分を照らし、あなたの道、将来を照らし、あなたの家族を照らすのですから。


2016年8月28日

「純粋な福音に帰る」
コリント人への手紙第一 4章1~2節

「報われない」ことは、キリストが言った患難の一つである。
この世において神を第一とする私たちの善意はしばしば理解されず報われない。
そのため、気力ややる気を失ってしまうことがある。肉体の疲れなら休んだら良い。
しかし、報われない苦しみははるかに深いものなのです。主を待ち望むことは、報いの結果ではない。
が、魂の深い休息である。報いを与える方と共に時間を過ごすのです。そうすると分かるのです。
私の求めていた報いとは、主その方ご自身であることが。


2016年8月21日

「神の考えるように考える」
コリント人への手紙第一 4章1節

「報われない」ことは、キリストが言った患難の一つである。
この世において神を第一とする私たちの善意はしばしば理解されず報われない。
そのため、気力ややる気を失ってしまうことがある。
肉体の疲れなら休んだら良い。しかし、報われない苦しみははるかに深いものなのです。
主を待ち望むことは、報いの結果ではない。が、魂の深い休息である。
報いを与える方と共に時間を過ごすのです。そうすると分かるのです。
私の求めていた報いとは、主その方ご自身であることが。


2016年8月14日

「栄光の教会の統治」
コリント人への手紙第一 3章22~23節

現代は歴史上なかった程の自由が一人一人に与えられている。
しかし、たくさんの人の心が縛られていて自由がないと感じている。
自分の将来と希望がないと感じている。自由は痛み苦しみがないことではない。
たといバビロンの奴隷であっても、神が与える将来と希望を知っているなら、
あなたは自由であり生きる喜びを持つであろうと預言者エレミヤは現代の私たちにも語っている。


2016年8月7日

「すべては私たちのものです」
コリント人への手紙第一 3章20~21節

「すべてはあなたがたのもの」ですが、すべてが有益ではない。
自由はその人の心の中にあるものを明らかにする。「思いのまま食べて良い」
エデンの園の果実を主に尋ねることなく食べたなら必ず病気になる。
ルターは言った。「私は自由な君主である。故に、私は自ら、すべての人に仕えるしもべとなります。(要約)」
あなたは自分の自由を何に消費しますか。


2016年7月31日

「自分をだます人々」
コリント人への手紙第一 3章18~19節

あのサマリヤの女はイエスを欺こうとして、かえって女の心の方がキリストのあわれみに捕らえられてしまった。
愛とあわれみに満ちた私たちの神は、人の悪賢さの中で、その人の心を捕らえるのです。
私たちは自分の間違いを知らないわけではない。
知らないことが間違いなのではなく、知っているにも関わらず、自分と教会、また、キリストを欺こうとする悪賢さが罪なのです。
私はこのようにあわれみ深い神の前て自分か隣人を欺いてまで自分を隠す必要はないのです。


2016年7月24日

「一時停止を守らないと事故になりますー聞くには早くなりなさいー」
クリスチャンホームセミナー

『一時停止を守らないと事故になります。』
交通ルールと同じように、家族の話し合いにもルールがあります。
相手が話している時に、相手の話しをさえぎってはいけません。
事故になります。一時停止を守りましょう。相手の主体性や独立性を侵害してはなりません。
相手が従うかどうかも相手の主体的な決断に任せなければなりません。
『自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい』とあるとうりです。


2016年7月17日

「一目で分かるヨシュア記」
ヨシュア記1~9章

『なぜ聖書には戦いの話が多いのか』それは人生は戦いの連続だからです。
神は勝利を約束された。しかし、我々は実際に勝利を手にするために、まず神との関係が正されなければならない。
とは言え、命じられたことは城壁の周りをただ黙って回ることだった。
学ぶべきことは自分の力を信頼することではなく、
ただ神を見上げ、イエスの勝利の名にのみ信頼することだった。(一目で分かるヨシュア記より)


2016年7月10日

「あふれる神の神殿」
コリント人への手紙第一 3章16~17節

『あなたは知らなかったのですか。自分はつまらないものと思っているが、神の愛の焦点であることを。』
『あなたは知らなかったのですか。自分は失敗の多いものと思っているが、
愛された神のこどもであることを。』
『あなたは知らなかったのですか。自分では罪深いものと卑下しているが、
神はあなたを捨ててはいないことを。』
『あなたは知らなかったのですか。あなたが疲れ果てた時にはあなたはすでに背負われているのです。』
『私から離れてください』とあなたが叫んでも、イエスは決してあなたの手を離さなかったことを。


2016年7月3日

「キリストの愛の中にある私の居場所」
コリント人への手紙第一 3章12~15節

キリストが教会の土台であることは『あなたは愛されている』という事実と確信が
教会の第一のメッセージでなければなりません。その上に私たちが朽ちない材料で建てるのです。
それは、愛された私たちが今度は他者を愛するという働きです。
愛された者だけが愛を知っているので、愛するという最も素晴らしい神の業をすることができる。
愛された確信のない人には愛するという神の家を建てることは困難です。
愛するということだけが最後まで残る人生の実質です。


2016年6月26日

「揺るがない土台の上に建てる」
コリント人への手紙第一 3章10~11節

キリストの心は十字架と復活に現れている。それは神学だけのことにしてはならない。
キリストの愛の『預言』は、十字架と復活の命が日常的な場面で現実化された励ましのメッセージです。
単なる励ましだけではない、その人を復活させる命のことばです。この世が決して与えることのできないことばです。
『決してあきらめない十字架と復活のことば』を持っているあなたは
自分の夫や子どもに『いのちのことば』を与えることによって仕えていくのです。


2016年6月19日

「一つの目標に向かって」
コリント人への手紙第一 3章8~9節

幸せな結婚をするためには父母を離れなければなりません。
それは新しい夫婦が堅く結ばれて一つとなるためです。
そのようにキリストの心と堅く結び付くためには離れなければならないものがあります。
『一つ』とはキリストの心にある目標を共有することです。
カナの結婚式でキリストの心と結び付いたのはマリアと水汲みのしもべだけで客ではありませんでした。
しもべたちは人の目や合理的考えから離れてキリストのことばに従いました。
その時、彼らの心はキリストの心と堅く結び付き、キリストも心動かされたのです。


2016年6月12日

「健康なクリスチャン」
コリント人への手紙第一 3章5~7節

健康なクリスチャンは成長します。
福音そのものの内に大きく成長する力があるからです。
壁にぶつかってもその若枝は成長して越えて行くのです。
世界宣教も、ある教会の特別な分野ではなく福音を信じる教会の当然の働きです。
福音の大きな成長力はしばしばその人を戸惑わせます。その人を変えようとするからです。
そこにいるのは成長させて下さる神なのです。
私たちはその素晴らしい神のみ業を妨げないようにしましょう。


2016年6月5日

「キリストの心と結ばれた人」
コリント人への手紙第一 3章1~4節

結婚した二人は法的には一つだが、二人の心が結び付いているかは別の問題である。
心が結び付くためには愛と忍耐が必要である。イエスを信じた人はキリストに結び付いている。
しかし、キリストの心に結び付いているだろうか。文字ではなく、キリストの心に触れているだろうか。
心に触れずにいると信仰が律法的になってしまう。
キリストの愛に感動し充足する時、良い行ないもついて来るのです。


2016年5月29日

「イエスの心に触れる礼拝」
コリント人への手紙第一 2章13~16節

キリストの心に触れるとは、キリストの疲れや落胆にも触れること。
キリストの重荷を共に負うことでもある。『くびき』を共にするのです。
しかし、多くのクリスチャンはキリストのくびきまで共に負おうとはしません。
親しくない方のくびきまで背負うとはしないのです。
イエスの心に触れて親しく交わって下さい。そうすればくびきを自ら背負おうとするでしょう。
すると分かるのです。その『くびき』とは私自身の重荷、苦しみであったことが。
その時、キリストの大きな恵みに深く感動するのです。


2016年5月22日

「神の備えを知る」
コリント人への手紙第一 2章10~12節

何の良いことも見出だせない時に心の『おおい』を取り去って
神の豊かな備えに気付かせるのは御霊の働きです。
イスラエルの王は心の目が開かれていなかったので、
やがて自分の友になる『敵』を殺してしまうところでした。
しかし、エリシャと弟子たちは敵をもてなしたので自分の敵を『友』に変えてしまいました。
あなたの敵は友になるかも知れないのです。


2016年5月15日

「隠されている神の知恵」
コリント人への手紙第一 2章6~9節

愛する者のために神の備えて下さったすばらしい宝は、
しばしば汚れた土の中に隠されている。そして見出だすことのできる人は少ない。
十字架の経験もそのようである。
もし御霊の光があり、ごく普通の日常の中に感謝を見つける知恵を育てているなら、
その人は実は祝福の真っ只中を歩んでいるのです。


2016年5月8日

「十字架を通して見る世界」
コリント人への手紙第一 2章1~5節

あなたの熱心があなたの信仰を支えるのではありません。
信仰を支えるのは神の力、すなわち、御霊である。
それはどこから来るのか。その人の内側からである。
イエスを信じる者の内側には「水源」がある。
だから、たとい荒野や死の陰の谷を歩く時にもそこから飲んで力を得るのである。
さらに、ハガルがイシュマエルに飲ませたように、あなたの家族も共に飲んで生きるのです。


2016年5月1日

「主を誇れ」
コリント人への手紙第一 1章30~31節

神の目にはあなたは高価で尊い。どのくらい尊いのだろうか。
それを知るには父が支払った代価を見れば分かる。
それはたったひとりの御子イエスキリストです。
神の怒りは私の代わりに、この御子イエスキリストの上に下ったのである。
それは神がその人を愛されたからである。
このようにイエスキリストの十字架を知るまではあなたは本当の自分を知りません。
もし知ったなら、あなたはイエスとイエスがこれ程までに愛された自分自身をきっと誇るであろう。


2016年4月24日

「神は誰をも誇らせない」
コリント人への手紙第一 1章26~29節

誰にも自分の誇りが打ち砕かれた日がある。
しかし、それは神との出会いの時でもあった。
パウロは自分では神に熱心な者と思っていたが、
復活の主に会った時には自分は無に等しい者であることが分かった。
反対に、自分を誇る人は交わりにおいて一つになることは難しい。
神は誰をも誇らせないのです。自分を誇っている人はまだ神と向き合っていないのです。


2016年4月17日

「もし信じるならあなたは神の栄光を見る」
ヨハネの福音書 11章32~45節

ラザロが生き返ったのは自身の死臭に満ちた所、暗い自分の墓の中だった。
果たして彼は喜んで踊ったであろうか。
自分の最悪の臭い、包帯でまだ縛られていて自由がない。
服がない。靴もなく職もない。
しかし、彼は主を喜び賛美するに充分な恵みを頂いていたはずだ。
彼は新しい命を頂いたのだ。家に帰っても何一つ変わっていないが、彼自身が変わったのだ。
だから、私たちも墓のような中にあっても心から主を賛美しよう。
充分な理由がある。やがて教会の仲間はあなたの包帯を解いてくれるでしょう。


2016年4月10日

「神の愛の愚かさ」
コリント人への手紙第一 1章18~25節

主イエスの愛の確信がどれほどの安定をもたらすか知って欲しかったのです。
神の愛を確信した人は、他の事にはこだわらなくなるのです。
これがコリント教会の問題の解決の鍵でした。
一方、神の愛には、こだわります。いつどこででも神の愛にこだわって求めて生きるのです。
キリストの素晴らしさに気付いた人は、それ以外のものを「ちりあくた」のように思うのです。


2016年4月3日

「人の不真実の中にも働く神の恵み」
コリント人への手紙第一 1章10~17節

主はご自身のからだである教会にたくさんの深刻な問題と罪があるにも関わらず、まず感謝をしている。
それは人間の不真実の真っ只中にも神の恵みは変わらずに働くからです。
使徒ペテロ、ダビデ、アダムとエバなどの罪の多い人生の中にも
神の恵みは力強く働かれたことを私たちは皆知っているのですから、
気落ちせずに赦された者として前進しようではありませんか。


2016年3月27日

「神の愛と賜物に欠けることのない教会」
コリント人への手紙第一1章4~9節

教会は果樹園のようです。多くの人はその甘い果実を味わうためやってきます。
互いの果実を分け合い味わう所に喜びと楽しみがあふれてきます。
その時、誰かが「あなたの果実を食べたいです。」とあなたの所にやって来るでしょう。
「あなたに分けてあげる果実は実っていないのです」と言わねばならないことは悲しいです。
このように、ある人は他人の果実を食べて過ごし、ある人は自分の果実を豊かに結び、
その周りには喜びの声が絶えないのです。御霊の実である「愛」を豊かに実らせましょう。


2016年3月20日

「聖なるものとされた人々-コリント教会」
コリント人への手紙第一1章1~3節

「交わり」には、良くも悪くも、生み出す力があります。
交わりを持つ相手に似るように変わるのです。
聖書はこう言っています。「遊女と交われば一つからだになる」と。
ですから、毎日、どんな人と交際しているか注意しなければなりません。
なおさら一層のこと、教会の交わりを本物にして、愛を持って互いに仕えることを大切にしましょう。
世はいつもあなたを罠にかけようてしているからです。


2016年3月13日

「私の福音、私のイエスキリスト」
ローマ人への手紙16章21~27節

誰一人同じ人生を送っている者はいない。
私一人だけの人生なので、イエスもその人にだけ寄り添っている。
なぜ、復活のイエスは500人同時に現れたのか。
一人一人がそれぞれ違う悩みと問題を持っていて、
それぞれ違った苦しみの中を通っているからである。
主はその人の涙を知っている。
イエスはその人だけのイエスとしていつも共に歩んでいるのです。


2016年3月6日

「平和の神が治める教会」
ローマ人への手紙16章19~20節

純真さほど、悪魔に立ち向かう強力な武器はない。
エバはその純真さを蛇に奪われたために容易にだまされて
禁断の木の実を食べてしまった。
しかも、それは善悪を知る木の実であったのだから、
欲の深い人間ほど、だまされ安いということになる。
純真さとは子どものものではなく、実は成熟した大人の知恵なのである。


2016年2月28日

「上からの知恵-純真」
ローマ人への手紙16章18節

汚い水はどこにでもある。純粋な水は買わなければ手に入らない。
十字架の愚かさは純真の極みである。
世間の人がどうしても欲しいものは、
世間の知恵者にではなく、純真な者にすべて与えられた。


2016年2月21日

「警戒しなさい」
ローマ人への手紙16章17節

愛情が家族を幸せにすることはない。
『家族という病』は、愛情という愛しか知らない人と家族の悲劇である。
『求めることを求める』は、家族を病にする。
愛情は拒絶されたなら容易に『ねたみとしっと、憎しみ』に変わってしまう。
このような病は、人間が神の愛を見失った時から始まったのです。


2016年2月14日

「教会につながる多様な人々」
ローマ人への手紙16章8~16節

練達した刀職人の手には「やけど」がたくさんあります。
しかし、その手は力強く器用であり間違いのない動きができるようになっている。
そのように愛することに練達した人の心も実は傷だらけなのです。
しかし、人の痛みを知っているのでやさしいのです。
キリストの体もそのように傷だらけなのです。(夕拝)


2016年2月7日

「教会を建て上げた人々」
ローマ人への手紙16章1~7節

神はあらゆる人に素晴らしいご計画をお持ちです。
自分の人生の悲しい出来事から引き起こせる劣等感は、
その人を落ち込ませるのではなく、大きく成長させるために与えられたのです。
その事を神の言葉によって気づくのです。神の愛の中で取り扱うのです。


2016年1月31日

「平和の神が共にいます」
ローマ人への手紙15章30~33節

自分に関する限り平和を保っていればよい。
しかし、隣人に無関心になるのではなく、目を向けつつ平安を保つことは容易ではない。
他人への要求が我慢できないのである。神との平和が自分の心を治めるようにしよう。


2016年1月24日

「真実な愛の奉仕」
ローマ人への手紙15章25~29節

聖書の教える真の愛はその人の意思によって働くものです。
感情やフィーリングではない。
気ままな愛やあてにならない善意は気休めであり、あまり役に立たない。
パウロは自分の愛と善意を義務とまで表現した。それは他者からの強制ではない。
愛の決断。結局、決断された善意と愛だけが役に立つのです。


2016年1月17日

「福音は隔ての壁を超えてゆく」
ローマ人への手紙15章22~24節

福音はそれ自体に世界に出かけていく力を信じる人に与える。
律法という神の要求と隔ての壁はキリストの十字架において取り除かれた。
しかし、全世界は自分の足元から広がっているのである。
ですので、毎週の週報のお知らせにもっと関心を持って頂きたい。


2016年1月10日

「光が輝くと世界は広がる」
ローマ人への手紙15章17~21節

光が輝くと世界は広がります。イエスは『世の光』です。
姦淫の女も収税人マタイもこの方に出会った時、生きる道を見出だした。
光が小さいのではなく、あなたの心の窓を大きく開けないことが問題なのです。


2016年1月3日

「みこころが天で行われるように」
マタイの福音書 6章10節

全てのクリスチャンが霊的に祝福されているわけではないという現実がある。
主の恵みはすべての人にある。しかし、祝福は主に捧げられた人生を送る人に与えられる。
あなたの人生は何に対して捧げられているのか。家族に対してですか。
もし家族の幸せを願うなら、あなたの人生を主に捧げなさい。
なぜなら、全ての祝福は主から来るのだから。」


2016年1月1日

「主はその手を支えられる」
詩篇37編23~24節

この先、何もないように思える時がある。その時は、イエスしか見えなかった。
道は分からなかったがイエスだけしか見えなかった。
しかし、それで良かったのだ。主が私の手を握っておられた。
道は分からないがイエスを知っている。
その時、私には「私は道である」というイエスしか見えなかった。(元旦礼拝)


2015年分